自民党と派閥

 今年1月から2月にかけ、自民党の派閥が次々と解散を決めました。まず岸田文雄首相が、自派閥である岸田派の解散を決定。安倍派、二階派、森山派、そして谷垣グループも、解散する意向を表明しました。4月に入って、茂木派も解散へと舵を切り、存続する方針なのは麻生派だけとなっています。

 こうした派閥解散の動きに対しては、「自民党は過去に何度も派閥解消を唱えてきた」「30年前にも解散したのに、いつのまにか復活した」「どうせまた復活する」等々、懐疑的な声が出ています。

 実際、政治団体の解散届を出したのは、現時点では森山派だけ。他は全て「決めた」だけです。過去同様、看板倒れになるのが確実ですが、実は、自民党が派閥解消に動くのは、「何度目か」どころではありません。

 自民党は過去に10回以上(!)、派閥解消に取り組んでいるのです。

 以下、年表風に記してみましょう。

①昭和32年9月、岸信介首相が派閥解消を提唱。岸派、大野派、河野派などが、政治団体や後援会を解散した。

 →すぐに復活

②昭和33年6月、岸首相が総選挙で当選したばかりの代議士たちを招き、昼食会を開催。その席上、「派閥解消は天の声」との有名な挨拶をする。

 →派閥解消を推進するため「融和クラブ」(小沢佐重喜座長)なるものができたが、それ以上は進まず。

③昭和35年8月、池田首相が池田派、佐藤派、岸派、大野派、石井派の主流五派の幹部を集め、派閥解消策を協議。党風刷新特別委(仮称)を設置することに。

 →翌日(!)、党執行部の会議で「その必要なし」と決定。

④昭和36年11月、党組織調査会(倉石忠雄会長)が派閥解消を含む中間報告を発表。

 →各派とも無視。

⑤昭和38年10月、党組織調査会(三木武夫会長)が派閥解消を骨子とする「党近代化」を答申。これを受け、まず池田勇人首相が自ら率いる池田派を解散し、他の派閥も全て看板を下ろした(岸田首相は池田勇人を尊敬しているそうなので、唐突な派閥解散は、この事例に倣った面があるのかも?)。

 →が、形式だけで実態は変わらず。翌39年の総裁選では、空前絶後ともいえる派閥選挙、金権選挙が展開される。

⑥昭和40年9月、佐藤栄作首相が当近代化構想を唱え、率先垂範とばかりに佐藤派を解散。さらには田中角栄幹事長が、派閥解消を主眼とする「自民党近代化試案」を提案する。

 →どの派閥も従わず。会合を自粛していた佐藤派も、一年後には堂々と復活。

⑦昭和49年8月、田中角栄首相が椎名悦三郎副総裁らとの会談において、派閥解消を提案。これを受け、田中派が幹部会で同派の解散を決定する。椎名が会長をつとめる党基本問題・運営調査会も、「派閥解消」を柱とする提言をまとめた。

 →角栄首相が退陣して全てがウヤムヤに。

⑧昭和51年12月、福田赳夫首相が派閥解消を唱え、翌52年3月までに全ての派閥が解散。

 →が、しばらくすると各派とも事実上の活動を始め、翌53年1月には公然と復活。

⑨昭和55年6月、大平正芳首相の急死後、党役員会で派閥解消が取り決められる。7月に就任した鈴木善幸新首相も、「今度こそやります」と宣言し、新内閣発足直後までに三角大福中(三木派、田中派、大平派、福田派、中曽根派)の各派が全て解散。

 →実態は各派とも存続したままで、三か月もすると公然と復活。

⑩平成6年8月、党改革本部が派閥解消を答申し、年末までに全派閥が解散(最近よく言及される「30年前にも派閥解消」とはこの時の派閥解消のこと)。

 →翌7年3月には公然と活動再開、5月には定例会も復活。

 また、実行には至りませんでしたが、自民党が下野していた平成22年2月にも、党執行部が派閥解消を検討したことがありました。

 さらに、上記のような総裁や党機関による「公式」の取り組みではなく、「非公式」の派閥解消運動も存在します。有名なのは、④のケースとも連関する、福田赳夫ら党風刷新懇話会による解消運動です。昭和37年7月、福田と倉石忠雄が各派を回り、「派閥解体」を申し入れています(実現せず)。

 つまり自民党は、これまで10回以上も派閥解消に取り組んだり検討したりして、その都度失敗してきたのです。今回の派閥解消も、すぐにウヤムヤになるでしょう。いや、すでに現段階で、ウヤムヤになっているのかもしれません。

 そもそも、「人が3人集まれば、2つの派閥ができる」(大平正芳)のが人間社会です。それを「派閥」と呼ぶかどうかは別にして、一定以上の規模を持った組織の中に、いくつかの集団が生まれるのは当然でしょう。まして政党で、それも自民党のような大きな政党で、派閥が無い方が不健全だと思います。かつて、「派閥は中選挙区の産物で、小選挙区になれば派閥はなくなる」との意見も存在しましたが、実際のところ、そうはなりませんでした。

 立憲民主党、国民民主党、かつての社会党、民社党……自民党以外の政党にも、「派閥」や「グループ」は存在します。戦前の政党も、例えば明治期の自由党は、土佐派、関東派、九州派、東北派などに分かれていました。

 公明党と日本共産党は、派閥がない、とされています。公明党は、確かに派閥が無いようです。だが共産党には、「ソ連派」「中共派」などの「派閥」がありました。単に、それらを切り捨ててきただけの話です。しかも「分派」の中に、さらに「派閥」が存在しました。昭和20年代には、党の分裂すら経験しています。

 今後も自民党が危機を迎えるたび、派閥解消論が浮上するでしょう。で、一応は解散しても、すぐに復活するでしょう。大規模の集団である以上、当たり前のことです。数百人の政治家が、完全に一つにまとまっている。その方が、よほど不自然かつ不健全だと思います。

 その実、最初の派閥解消(上記の①)は、当時の総裁・幹事長が仕掛けた政局でした。すなわち岸信介と川島正次郎が、派閥の資金ルートを断ち、献金を党に一本化しようとしたのです。②、③、⑥も、総裁の力を強めることが真意だったでしょう。⑤の池田首相のケースも、反池田派の派閥解消論を潰す目的ですから、同種といえるかもしれません。

 ⑦の角栄首相の場合、半分は人気回復目的でしょう。就任当初の人気は去り、凋落の一途をたどっていた角さんが、国民受けを狙ったわけです。だが残りの半分は、やはり、「権力拡大」が狙いだったと思います。

 つまるところ、「過去の派閥解消論の約半数は、総裁の権限強化の隠れみのだった」――こういう見方すらできるのです。今回の岸田首相の決断にも、そういう意図が含まれていると思います。

 裏を返せば派閥には、「総裁独裁」を防ぐ効用があるということ。詳しくは別の機会に触れますが、派閥は「諸悪の根源」などではありません。「功」の部分も少なくないのです。