田中角栄が挙げた「幹事長の条件」

 かつて田中角栄は、宰相になる条件として、「党三役のうち幹事長を含む2つと、蔵相、外相、通産相のうち2つを経験していること」を挙げました。しばしば引用されるので、ご存じの方も多いと思います。

 しかし、以下のセリフをご存じの方は、あまりいないのではないでしょうか。実は角栄は、「幹事長の条件」についても、極めて具体的に語っていたのです。

「議場でささやき合っている議員たちを見ただけで、彼らが何を話しているかわからなければ、とても幹事長なんか務まるもんじゃない」――。

「宰相の条件」をクリアするのも大変ですが、それ以上に厳しい要件かもしれません。‶大幹事長〟と謳われた、田中角栄にしか吐けないセリフでしょう。

 森山裕・新幹事長は、数少ない玄人政治家の一人だと思います。が、遠くから議員たちを「見ただけで」、何を話しているかわかるのでしょうか。いや、歴代幹事長の中で、わかる人がいたのでしょうか。

 三木武夫、福田赳夫、大平正芳……「宰相の条件」を満たす政治家は、何人もいました。条件を満たしたにもかかわらず、首相になれなかった政治家もいました。しかし、「幹事長の条件」を満たす政治家となると、田中角栄ただ一人だと思います。

 首相としての田中角栄に対しては、「期待外れだった」と見る意見が大勢です。「日中国交正常化」等の実績もある一方、狂乱物価を招来。石油危機への対応も、後手に回っていました。また、当時の衆院選は中選挙区制でしたが、これを小選挙区制へ変えようとして失敗するなど、政権運営もぎこちなかった印象です。

 実際、田中内閣末期の支持率は、各社だいたい10%から20%強でした。歴代内閣の中でも、最も低い部類です。42年に及ぶ角栄の政治生活の中で、病に倒れた最晩年を除けば、首相時代が最も不本意だったかもしれません。

 他方、幹事長としての田中角栄に対しては、否定的な評価は皆無といってよく、「歴代最高」との評価が定着しています。5期4年の幹事長時代こそ、政治家田中角栄のハイライトだったといえるでしょう。

 日韓基本条約や大学管理法などの重要案件を次々とまとめ、昭和44年の総選挙では300議席超(追加公認を含む)の大勝。さらには副総裁の川島正次郎と連携し、史上唯一の総裁四選を実現……。佐藤栄作政権のど真ん中に座り、政局も政策も動かした大黒柱。佐藤長期政権の演出者にして立役者は、まぎれもなく田中幹事長でした。

 その勢いと存在感が、いかに凄まじかったか。毎日新聞の佐藤番記者だった鈴木棟一記者が、こんなエピソードを紹介しています。

「佐藤内閣のとき、田中が佐藤を官邸に訪ねてきた。佐藤に対してはピリピリと気をつかっていた様子が観察された。(中略)話が終わって官邸を出る田中のうしろ姿から、メラメラと後光のような光が輝くのを見た。筆者の生涯で、人から後光がさすのを見たのは初めてであり、おそらくもうないであろう。まさに昇り竜のエネルギーが発光していた」(『永田町大乱2』)

 メラメラと輝く後光。そんなものを発光する政治家は、幹事長時代の田中角栄しかいないでしょう。

 名物秘書の早坂茂三は、「幹事長時代の田中は、水を得た魚のように、汗をかきかき、仕事を愉しみながら大世帯の自民党を切り回し、野党とやり合っていた」(『政治家田中角栄』)と書き、長く幹事長室長を務めた奥島貞雄氏も、角栄を「幹事長の中の幹事長」「私が接した幹事長の中で、間違いなくナンバーワン」(『自民党幹事長室の30年』)と評しています。野党の政治家からも、その実力を評価されていました。

 角栄自身、幹事長の椅子が大好きだったようで、「総理なんていうのは、一回やれば結構だ。血圧と血糖値の上がる商売で、とても身がもたない。しかし、幹事長はおもしろい。あれは何回やってもいい」と語っていたとのこと。前段の、「総理は一回やれば結構だ」というのは本心ではないでしょうが……。

 ともあれ田中角栄にとって、天職であり、水を得た魚のように活躍できたポジション。それが、幹事長ポストでした。

 国会運営、党内調整、資金の調達……幹事長の職責は、極めて多岐に及んでいます。中でも重要な仕事が「選挙の采配」です。先述したように、田中角栄は昭和44年の総選挙で大勝し、‶大幹事長〟の名をほしいままにしました。森山新幹事長が、来たる総選挙でどのような采配を振るうのか、裏金議員たちをどう扱うのか。「田中角栄幹事長ならどうしただろう?」と連想しながらウオッチするのも、一興だと思います。