角福戦争の本格的な幕開け「ゴルフ巌流島」

 昭和45年8月20日、長野県は南軽井沢のゴルフ場で、ある‶決闘〟が行われました。人呼んで「ゴルフ巌流島」。次期総理の座を争っていた田中角栄と福田赳夫のゴルフ対決です。

 時あたかも佐藤栄作内閣の全盛期。佐藤は総裁を三選しており、「四選か、退陣か」とささやかれていた時期です。角栄は幹事長として、福田は大蔵大臣として、佐藤政権の屋台骨のような存在でした。

 二人はまた、ポスト佐藤をうかがうライバル同士でもありました。先行していたのは岸信介を後ろ盾とする福田の方で、岸の実弟である佐藤の意中も「福田後継」でした。()()の背中を必死に追いかけ、じわじわ差を縮めてきたところ。その両者が初のゴルフ対決をするということで、決闘前から異様なムードが広がっていました。

 果たし合いの日は晴天でした。100人を超すギャラリーが集まる中、午前九時過ぎに福田赳夫が登場します。「やあやあ、福田武蔵の入場だ。田中小次郎はすでにご着席か」。角栄には総務会長・鈴木善幸、福田には農相・倉石忠雄という立会人がつき、決闘の幕が切って落とされます。

 1番ホールで福田はチョロ、角栄はダフり。前評判のわりにズッコケた調子でスタートした決戦は、角栄51,福田61でアウトを終了します。10打差をつけられた福田は「ウォーミングアップ不足だ。後半戦で勝負だ」と強がりますが、インも角栄42,福田56と大差をつけられてしまいます。  福田武蔵は悔しがり、「どうだい、午前中のはキャンセルして……」と決闘のやり直しを提案。田中小次郎も「面白い、承知した! もうハーフだ!」と受けて立ち、再び決闘が始まります。

 しかし、またしても小次郎の圧勝でした。角栄45,福田59。巌流島の戦いは、田中小次郎の三連勝に終わったのです。ちなみに、田中角栄と福田赳夫が一緒にゴルフをプレーしたのは、後にも先にもこの一回だけでした。

「ゴルフ巌流島」から二か月と少し後の総裁選で、佐藤栄作は四選します。これは幹事長だった角栄と、その後ろ盾だった副総裁・川島正次郎が、福田への禅譲を阻止すべく画策したものですが(拙著『田中角栄を総理にした男』参照)、この「佐藤四選」を機に、次期総裁レースの行方は一変したのです。

 佐藤内閣の長期化により、時間のできた角栄は、参議院を含む多数派工作に成功。しかも、岸信介、池田勇人と官僚出身の首相が続いてきた中、今また官僚上がりの佐藤が四選したことで、「次はそろそろ党人派の総理を」「元大蔵官僚の福田より党人の角栄を」との声が高まってきたのです。

 そのうえ、福田は佐藤四選時、すでに65歳。対する角栄は52歳の若さです。佐藤政権が続けば続くほど、年長の福田が不利になるのは明らかでした。さらに、「五選」は絶対に無いですから、四選した時点で、佐藤は次第にレームダックと化し、福田を推す力が無くなっていくこと必定です。つまり、佐藤の四選を機に、角福の順位は入れ代わり、角栄がポスト佐藤レースの先頭に躍り出たわけです。

 国民の人気、福田に近い佐藤派の先輩・保利茂の落選、多数派工作の成功……角栄がポスト佐藤の戦いを制し、首相となった理由はいくつもあります。わけても主因といえるのが、「福―角」を「角―福」に逆転させた、佐藤の四選だと思います。「佐藤四選」なかりせば、ポスト佐藤は角栄ではなく福田だった――こう断言してもよいでしょう。

 その意味で、「ゴルフ巌流島」は、角福戦争の本格的な幕開けを告げる決闘だったといえるかもしれません。角福戦争の始まりは、厳密にいえば昭和39年11月9日、第一次佐藤内閣が発足した日だと思います。とはいえ、開戦してからの数年間は、前哨戦というか、事前運動のような戦いでした。

 しかし、巌流島の決闘を経て、佐藤四選を初戦とする本戦に突入。当たるべからざる勢いの角栄は、福田とその後ろにいる岸、佐藤兄弟を倒し、この死闘に勝利。天下を奪うのです。

 けれど、角福戦争はそれで終わりではありません。その後も戦いは続きます。「角栄の看板政策だった‶日本列島改造論〟を引っ込めさせた」等、福田が勝利したこともありますが、たいていは角栄の勝ちでした。田中小次郎が三連勝した「ゴルフ巌流島」は、その面でも、角福戦争を象徴する決闘だったといえるかもしれません。

 ※拙著『田中角栄を総理にした男』において、「ゴルフ巌流島」のスコアの数字が誤っていました。本ブログに記載した数字が、正確なスコアです。訂正するとともに、深くお詫びいたします。