「日本共産党はぶれない」――近年、そんな意見をよく聞きます。日共支持者はむろん、支持者ではない「識者」まで、その種の発言をしています。「共産主義を信奉しているわけではない。共産党の政策も、支持しているわけではない。だけど、ぶれない、一貫した姿勢は評価できる」というわけです。
共産党自身、「ぶれない姿勢」をとみにアピールしています。選挙でも、「ぶれずに、つらぬく」とのスローガンを掲げ、ポスターにも使用。さも専売特許であるかのように、「ぶれない」ことを強調しています。
ぶれない。これはある種の信頼性を含み、好印象を与える言葉です。政治的な力にもなる言葉です。すなわち日共は、「ぶれない」とのアピールを、ちょっと大げさに言えばプロパガンダとして行っているのでしょう。実際、「ぶれない」との評は、支持者ではない層にまで浸透しているわけですから、そのプロパガンダは成功していると思います。
しかし、日本共産党史を概観すれば、これほどぶれる政党も珍しいことがわかります。結党以来、路線転換に次ぐ路線転換。これでも同じ政党なのか、と感じるほどです。しかも転換の過程で、粛清やトラブルも多発しています。
以下、思いつくままに記してみましょう。まずは戦前から。
①昭和初期、無名の新人・福本和夫の唱える理論が党や左派論壇を席巻。日共は、この「福本イズム」に拠って党の再建を進めるが、本家・コミンテルンはこれに反対。福本イズムも党人事も覆したうえで、「1927年テーゼ」を押し付けてくる。すると、福本イズム一色だった党は、全党をあげて27年テーゼへなびき、福本和夫は失脚。その理論も忘却の彼方へ。
②上記の27年テーゼは、「まず民主主義革命、次いで社会主義革命」という二段階革命論を採っていた。しかし数年後、モスクワ留学から帰国した風間丈吉が、コミンテルンの意を受け一段階革命論の「政治テーゼ草案(1931年テーゼ)」を起草。すると、たちまち一段階革命論が党の主要な理論となる。
③ところが翌年、コミンテルンがまたも新テーゼを押し付けてくる。この「1932年テーゼ」は、「天皇制打倒」を金科玉条とし、二段階革命論を採用していた。つまり、31年テーゼを覆す内容だったが、これまた全党をあげて二段階革命論へと豹変。
……このように、戦前の日共は、たった数年の間に、二段階革命論(27年テーゼ)→一段階革命論(31年テーゼ)→二段階革命論(32年テーゼ)と、行ったり来たりしたわけです。「ぶれない」どころか、無節操な転換を繰り返してきた、と言わざるを得ないと思います。
こうした唐突な路線転換の背景には、コミンテルン内部の権力闘争がありました。
ブハーリンが失脚すると、ブハーリンがつくった27年テーゼも否定される。31年テーゼの原案者・サハロフが失脚すると、31年テーゼがしりぞけられる。で、代わりに32年テーゼが出てくる……といった具合です。
共産主義とか共産党といえば、他の党より理論を重視していそうな印象を受けます。でも実際は、人間関係や好き嫌い、または利害や損得勘定で、多くの物事が動いていたのでしょう。これは共産党に限らず、他の党も同じだと思います。所詮、政治家や政党なんて、そんなものです。
もともと日本共産党は、コミンテルン日本支部として創立された政党です。本部と支部の力関係の差、これは圧倒的なものがありました。例外的に、コミンテルン駐日代表の反対を退け、福本イズムが党の軸となったことがありますが、基本は「従属」です。
それゆえ、「本部・コミンテルンの事情によって、支部・日本共産党が振り回されてしまった」という同情すべき点はあろうかと思います。ブハーリンが失脚しなければ、27年テーゼのまま、「ぶれずに、つらぬ」いたのかもしれません。
しかし、日本共産党は、コミンテルンが解散した後も、目まぐるしく転換を繰り返していきました。すなわち、本部や外国の事情と関係なく、ぶれていたのです。そのことは、またあらためて綴りたいと思います。
