「ぶれない」との評がある日本共産党。しかし、その党史をざっと見渡せば、事実は正反対だとわかります。前回は、戦前の日共が、コミンテルンの事情に振り回され、ころころ主張を変えていたことを述べました。今回は、戦後の日共が、いかにぶれてきたかを見ていきます。
①昭和21年、日本国憲法の制定に、「天皇制」を温存させている、戦争放棄ではなく侵略戦争のみ放棄すべきだ、一院制にすべきだ、等々の理由で反対。しかしその後、自衛中立論を経て非武装中立論へと転換し、続いて自衛隊容認の「護憲」政党へと変身する。今や「憲法を生かした政治こそ新しい希望ある日本の道」とまで主張(2024憲法大集会における田村智子委員長のあいさつ)。
②アメリカを中心とする進駐軍を「解放軍」「革命の味方」とみなし、野坂参三の唱えた「愛される共産党」に象徴される平和革命論を採用。だが昭和25(1950)年、コミンフォルム(コミンテルン解散後につくられた国際共産主義組織)が平和革命論を批判すると、所感派と国際派に分裂したあげく、反米・暴力革命路線の51年綱領のもと武装闘争を展開する。現在の日共は、「武装闘争は徳田球一・野坂参三らの分派がやったこと」と主張しているが、実際は徳田らの所感派が主流派だった。
③昭和30年元旦、機関紙『アカハタ』にて武装闘争を自己批判。同年7月、第6回全国協議会(六全協)が開かれ、極左冒険主義を「清算」する。しかし、「(暴力革命路線の)51年綱領のすべての規定が正しい」と述べるなど、支離滅裂な清算だった。
④1960年代に入り、本家筋のソ連と中共の対立が進むと、やや中共寄りの路線をとるようになる。昭和38(1963)年、部分的核実験停止条約をめぐって中共寄りの立場を明確にすると、翌39年、ソ連派の幹部を立て続けに除名。ソ連批判を強める。
⑤しかし昭和41年、書記長の宮本顕治を団長とする訪中団が、毛沢東から暴力革命を要求されると、今度は中共と対立。中共派の幹部も軒並み除名。
⑥昭和49年末、それまで猛烈に批判していた創価学会と突如「和解」し、10年間は相互不可侵とする「創共協定」を締結。宮本顕治・池田大作会談も実現する。ところが公表された途端、蚊帳の外に置かれていた公明党などから反発が起き、協定は一年も持たずに死文化。再び創価学会批判を始める。
⑦昭和36年、「原子力問題にかんする決議」の中で、原子力の平和利用を標榜。その後も「原子力の開発、平和利用を全面禁止するような『反科学』の立場はとらない」などと主張していたが、平成23年の福島原発事故後は「原発反対 日本共産党 立場一貫」(『赤旗』平成24年12月3日)と強弁。ちなみに昭和30年代には、ソ連と中共の核保有にも賛成していた。
⑧昭和36年制定の61年綱領では、「プロレタリアート独裁の確立」を唱えていたが、その後「プロレタリアートの執権」へと変更し、続いて「労働者階級の権力」、さらには「社会主義をめざす権力」へと改変する。
……他にもありますが、これぐらい挙げれば十分でしょう。党の立ち位置も、基本方針も、これだけぶれてきたのです。
「戦前編」で綴ったように、戦前の日共は、コミンテルンの事情に振り回され、転換を繰り返しました。日共とは、コミンテルンの日本支部でしたから、それもやむを得ないかもしれません。しかし、コミンテルンが解散した戦後も、上記のようなめまぐるしい路線転換をしてきたわけです。
「あやまちては改むるに憚ること勿れ」(『論語』)という言葉があります。あやまちを犯したらためらわずに改めよ、との意味です。人間のやることは、ぶれたり間違ったりするのが当たり前。殊に政治は、一寸先は闇ですから、ぶれたり間違ったりしてもやむを得ないところがあるのです。
それなのに、「ぶれない」「立場一貫」「武装闘争をしたのは分裂した一方の側」などとあやまちを認めず、改めない。しかも、少しでも異を唱えたら排除していく……これでは国民からも、他党からも、最低限の信頼すら得られないでしょう。
自民党の裏金事件の発端となったのは、赤旗の調査報道です。「桜を見る会」も、舛添元都知事の「公私混同疑惑」もそうでした。日共には、こうしたある面での「政界浄化」の役割が、あると思います。
しかし、他党に勝るとも劣らぬほどぶれてきて、あやまちを犯してきたにもかかわらず、「ぶれずに一貫して」非を認めぬ独善的姿勢。こういう態度を改めなければ、「浄化」以上の役割を、期待することなどできるはずがありません。「野党連合政権」の樹立など、夢のまた夢でしょう。

